猛獣の剥製

これは先月亡くなった祖父から聞いた話です。

祖父は太平洋戦争が起きる前年に生まれました。
祖父が生まれ育った界隈は動物園から目と鼻の先にある場所で幼い頃は白川や疏水で魚を採ったり、水泳をしたりしていたようです。

また、家の近所に住む方が的屋をしており、動物園の正門前で出店を出される際には幼い頃からいわゆるサクラとして呼ばれ、小遣い稼ぎに行っていたとか・・。
(その小遣いは将軍塚でメジロを採るための鳥もち代に消えていたとのこと)

そして、祖父の母(私の曾祖母)は園内にあった尾崎食堂で勤めていました。
祖父は、戦時中、幼かった+貧しくて余裕がなかったということもあって、戦時下の動物園にはもしかしたら、足を運んでいないかもしれません。ただ、噴水池のそばにあった迎賓館(以前あった新猛獣舎の建築に伴って撤去)に、戦時中に処分された猛獣の剥製が並んでいたと言っていました。これは確かか否か分かりませんが、「ただ並べられていた。」「触れるくらいの場所に・・目の前に並んであった。」と言っていました。そして、「わしが生まれて初めてライオンやらトラやら見たのは、剥製なんや。」と、私が幼い頃に聞かせてくれたことを覚えています。

大人になり、動物園史を調べる中でそんな祖父の言葉と上野動物園 古賀園長の「Zoo is the Peace.」という言葉が重なってなりません。
(剥製が何体あったかは不明ですし、戦前から迎賓館が剥製展示の場であったため、戦前に亡くなった個体かもしれません。もしかしたら、ライオンの朝菊やダイヤ、ヒョウの疾風、当時国内唯一とされているスマトラトラ等だったかもしれません。ただ、上野や天王寺には戦時下に処分された猛獣の剥製がいくつか残っていますが、京都に現存しない理由が気になります。)

祖父が見たこと・・私が祖父から聞いたことが何かの役に立てれば幸いです。

『科学書報』1944年3月号に掲載された吉田平七郎「京・阪・神動物園に拾ふ」の記事も、文章と合わせてお寄せいただきました。